東山魁夷の画風が持つ静謐さは、平穏無事な人生から生まれたものではありません。むしろその経歴は、挫折と喪失、そして過酷な歴史の荒波に翻弄され続けた苦難の連続でした。
1908年(明治41年)に横浜で生まれた魁夷は、幼少期を神戸で過ごし、旧制兵庫県立第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)を経て東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科へ進学しました。結城素明に師事しながら頭角を現し、1933年にはドイツのベルリン大学へ留学。西洋美術史の学術的基礎を固め、欧州の精神文化を肌で吸収します。
しかし、帰国後の魁夷を待っていたのは冷酷な現実でした。画壇での評価は伸び悩み、経済的な困窮が続くなか、1940年に実父が他界。さらに1942年には愛する弟・三郎が病で急逝します。追い打ちをかけるように1945年、37歳で召集を受け、熊本で過酷な対戦車特攻の訓練に従事させられました。「死」を目前にした極限状態の中で、魁夷は山肌を照らす夕日の神々しさに圧倒され、「自然の美しさに目覚め、命の尊さを悟った」と後に語っています。
終戦を迎えたものの、疎開先で最愛の母までもが病没。肉親のすべてを失い、住まいも焼失した魁夷は文字通りゼロからの再出発を余儀なくされました。その極限の虚脱状態から立ち上がり、1947年の第3回日展に出品したのが『残照』です。千葉県君津市の鹿野山から望む連なる山並みを、赤みを帯びた夕光で捉えたこの作品が見事に特選を受賞。画壇における評価を一変させ、風景画家・東山魁夷の誕生を告げる記念碑的転換点となりました。
その後、魁夷の筆は個人の心象表現にとどまらず、国家的な文化事業へと広がっていきます。1968年には皇居新宮殿の壁画『朝明けの潮』を完成させ、巨大な波涛を通じて日本の雄大な生命力を描き切りました。さらに1971年からは、鑑真和上の遺徳を偲ぶ唐招提寺御影堂の障壁画制作に着手。構想から完成まで実に10年超の歳月を投じ、日本の山海を描いた『山雲』『濤声』、中国取材をもとに水墨で描いた『黄山暁雲』など計68面に及ぶ不朽の大作を奉納しました。私生活の深い悲嘆を芸術への献身へと昇華させた生き様こそが、魁夷の芸術に比類なき重みを与えています。