慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜は大坂城から軍艦で江戸へ帰還し、上野寛永寺や水戸で謹慎生活に入りました。明治維新が成立した後は静岡(旧駿府)に移住し、大正2年(1913年)に77歳で没するまで、歴代15人の将軍の中で最も長い余生を過ごしました。
静岡での慶喜は、政治には一切口を挟まず、写真撮影、狩猟、油絵、自転車、囲碁、投網といった多彩な趣味に没頭しました。この隠遁生活は、単なる道楽ではなく「新政府に対して二度と政治的野心を持たない姿勢を徹底的に示し、旧幕臣や徳川家を守るための高度な処世術」であったと評価されています。
明治31年(1898年)には皇居で明治天皇に拝謁して名誉を回復。明治35年(1902年)には徳川宗家とは別に「徳川慶喜家」の創設を許され、最高位の公爵に叙せられました。
徳川宗家自体は、慶喜から家督を継いだ第16代・徳川家達(いえさと)が貴族院議長を30年以上にわたり務めるなど近代日本を支え、現代へと受け継がれています。現在の徳川宗家第19代当主は経済評論家・翻訳家として知られる徳川家広(いえひろ)氏であり、歴史遺産の保全や文化活動を通じてその精神を今に伝えています。