飛田新地の起源は、大正時代にさかのぼります。1912年(明治45年)に発生したミナミの大火(難波新地乙部遊郭の焼失)を契機に、代替地として開発が進められ、1916年(大正5年)に正式な遊郭として営業を開始しました。戦前の全盛期には200軒以上の妓楼が立ち並び、壮麗な近代和風建築が軒を連ねる西日本屈指の遊郭へと発展を遂げました。
大きな転換点となったのは、1958年(昭和33年)の売春防止法施行です。全国の赤線地帯が廃業や業態転換を余儀なくされるなか、飛田新地が選択したのは「飲食店への転換」でした。地域組織である「飛田新地料理組合」を結成し、全店舗を風営法の管轄下にある性風俗店ではなく、食品衛生法に基づく「料亭」として大阪府に届け出たのです。
この業態転換により構築されたのが、いわゆる「料亭名目の理由」とされる特異な論理構造です。店はあくまで客にお茶とお菓子を提供する「料亭」であり、客と接客を行う女性(仲居)は店内で出会ったに過ぎないという建前をとります。その席上で男女が意気投合し、2階の座敷で起こる行為は「個人の自由恋愛に基づく私的な行為」であると解釈することで、売春防止法が禁じる「周旋(仲介・場所の提供業務)」の適用を法的に回避してきました。
この論理は、戦後の法解釈の隙間を縫った脱法的なグレーゾーンとして長年議論の対象となってきましたが、地元警察や行政との微妙なパワーバランス、さらには地域経済との密接な結びつきによって、半世紀以上にわたり事実上の黙認状態が維持されています。国の有形文化財に指定された近代建築「鯛よし百番」のように、純粋な飲食料亭として営業する店舗が同エリアに共存している点も、この街の複雑な構造を象徴しています。