朝三暮四の寓話には、教科書的な解説では省かれがちな重大な盲点が存在します。それは、出典である『荘子』と『列子』では、この話から導き出しているメッセージが全く正反対であるという点です。
『荘子』斉物論における意図:是非の対立を超越する「両行」の知恵
道家思想の巨頭・荘子がこの寓話を引いた目的は、猿や狙公を愚弄することではありませんでした。荘子は直後にこう結んでいます。
「名実未だ虧損せざるに、喜怒其の為に用ゐらる。亦是に因るのみ。是を以て聖人は之を是非の緒に和して天均に休す。之を両行と謂ふ。」
名(朝三暮四・朝四暮三という呼び名)も実(合計7個という実質)も何一つ減ったり失われたりしていないのに、猿の感情(怒りと喜び)だけが状況に振り回されている。世の中の「善悪」「是非」「損得」の議論もこれと同じではないか、と荘子は説きます。
荘子が理想とする「聖人」は、「朝三が正しいか、朝四が正しいか」といった水掛け論に介入しません。どちらでも実質は同じなのだから、相手の気が済むように合わせて調和を保ちます。これを「両行(りょうこう=双方の主張を生かしながら対立しないこと)」と呼びます。つまり荘子において、狙公の態度は「無駄な対立を避けて融通無碍に現実を乗り切る達人の知恵」として肯定的に描かれているのです。
『列子』黄帝篇における意図:統治者が愚民を操る権謀術数
一方で、戦国時代の知恵者・列子の記述では、トーンが大きく変わります。『列子』では、狙公の知恵を「聖人が愚民を統御する知謀」として捉えています。知恵のある者が知恵のない者を言葉巧みにコントロールし、相手に満足感を与えながら自らの思惑通りに動かす統治テクニックとして朝三暮四を取り上げているのです。
後世において朝三暮四が「詐術で人を言いくるめる悪徳」の代名詞となったのは、この『列子』的な統治・権謀術数の側面が強く切り取られて世間に定着した結果です。原典の『荘子』が目指していた「対立からの解脱」という深遠な哲学は、皮肉にも時代とともに忘れ去られていきました。