事態の起点となったのは、元労務報国会動員部長を名乗る吉田清治氏(故人)の証言でした。吉田氏は1977年の著書『朝鮮人慰安婦と日本人』や1983年の『私の戦争犯罪』において、「軍の命令により済州島で若い朝鮮人女性を暴力的に狩り出した」と告白しました。朝日新聞はこの証言を1982年9月以降、社会面などで大々的に報道し、少なくとも計16回にわたって紙面で取り上げました。
さらに問題を過熱させたのが、1991年8月11日付の紙面に掲載された植村隆 慰安婦記事です。植村記者は、名乗り出た元慰安婦の女性(金学順さん)の証言を「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」と報じました。しかし、金氏自身は親に売られて妓生(キーセン)の置屋に入った経緯などを後に裁判で語っており、軍による物理的な強制連行とは異なる背景を持っていました。
ここで発生した構造的誤認が、女子挺身隊 混同の理由として後に厳しく批判されることになります。「女子挺身隊」は戦時体制下の法制に基づき工場などへ勤労動員された女性の組織であり、軍組織に付随する性的な役割を強いられた慰安婦とは制度的にも法的にも全く異なるものでした。当時、研究者や一部運動体の間でもこの混同が見られたものの、裏付け取材を行わずに「挺身隊として連行された」と断定的に報じたことが、読者や海外に対して「国家制度として女性を性奴隷に狩り出した」という誤ったイメージを定着させる決定打となったのです。