軍事介入にあたり、連合国側が表向き掲げた大義名分が「チェコスロバキア軍の救援」でした。もともとオーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったチェコ人やスロバキア人は、自国の独立を勝ち取るためにロシア軍側として参戦していました。しかしロシアが戦線離脱したため、彼らは極東のウラジオストクを経由し、船で西欧へ渡って再び対独戦線に合流しようとシベリア鉄道を東進していたのです。その途上でボリシェヴィキ勢力と衝突し孤立したため、彼らを助け出すという名目が仕立てられました。
1918年7月、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領から共同出兵の正式な打診を受けた日本政府は、出兵人数を各陣営7,000人規模に制限するという枠組みを受け入れました。しかし、日本陸軍参謀本部の思惑はまったく別のところにありました。
当時の陸軍中枢(山県有朋や田中義一ら)は、ロシアの混乱を千載一遇の好機と捉えていました。彼らが描いていたシナリオは、バイカル湖以東の東シベリアに親日的な緩衝国家を樹立し、日本の権益下にある南満州や朝鮮半島の安全を確保すると同時に、北方の資源地帯を手中に収めることでした。結果として日本は、アメリカとの約束を大幅に超える最大時7万3,000人規模の大軍をシベリアへ送り込み、単なる救援任務を遥かに超えた勢力圏拡大へと突き進んでいきました。