慶応3年(1867年)、海援隊が借り受けていた「いろは丸」が紀州藩の巨艦「明光丸」と衝突し沈没した事件は、彼らの真骨頂を示す出来事だ。
弱小な私設団体に過ぎない海援隊が、徳川御三家の一角である紀州藩を相手に巨額の賠償金を勝ち取った。勝因は徹底した法論と世論操作にある。万国公法(国際法)を盾に取り、自分たちの正当性を主張する一方で、長崎の街に「船を沈めた紀州藩」を揶揄する流行歌を流行らせて世論を味方につけた。
このネゴシエーションを前線で取り仕切ったのも隊員たちだ。単なる武力行使ではなく、法とメディアを駆使して大国を追い詰めた手法は、当時の日本において画期的な試みだった。