長年、歴史ファンや研究者の間で議論の的となってきたのが、百済復興の理由と経緯です。一国の運命を賭けてまで、他国の戦争に深入りした動機は何だったのでしょうか。当時の最高実力者であった中大兄皇子(天智天皇)の思惑には、大きく分けて3つの切実な安全保障上の背景がありました。
第1に、百済と倭国の間に築かれていた数世紀にわたる特別な同盟関係です。倭国は百済から仏教や漢字、先進的な土木建築技術、鉄器製造のノウハウを独占的に導入していました。百済が完全に唐と新羅の手に落ちることは、当時の倭国にとって最新テクノロジーの供給ルートが断たれることを意味していました。
第2に、対馬海峡を挟んだ防衛ラインの後退に対する恐怖です。朝鮮半島が唐の息がかかった新羅によって統一されれば、次は日本列島が直接の軍事侵略の標的になりかねません。中大兄皇子にとって、百済を緩衝地帯(バッファーゾーン)として存続させることは、自国の本土防衛に直結する死活問題だったのです。
第3に、皇室自体の強い政治的決断です。母である斉明天皇は高齢を押して自ら九州・筑紫へ親征し、朝倉宮で陣頭指揮を執るなかで急逝しました。母の遺志を継いだ中大兄皇子は、正式な即位の儀式を経ない「称制(しょうせい)」という非常大権の体制を敷き、全精力を傾けて3次にわたる大遠征軍を編成しました。当時の列島の総人口が500万人前後と推計される時代に、のべ4万人を超える遠征軍を送り出した事実は、政権がこの戦いを「国家存亡の防衛戦」と位置づけていた動かぬ証拠です。