1942年5月8日、運命の歯車が激しく狂い始める。八田與一は陸軍の招聘を受け、南方開発の調査団員としてフィリピンへ向かう輸送船「大洋丸」に乗り込んだ。1万4000トンを誇る元豪華客船の大洋丸には、彼を含む日本の未来を背負う技術者や学者、行政官ら約1000名がひしめき合っていた。しかし、長崎県五島列島沖の男島付近を航行中、米海軍潜水艦「グレナディアー」が放った魚雷が船体に突き刺さる。
激しい爆発音が静寂を切り裂き、船体はわずか数十分で傾斜していった。当時、軍は情報漏洩を防ぐため大洋丸沈没事件を徹底した報道管制下に置いた。「極秘」の打電が飛び交い、遺族にさえ詳細な事由は知らされなかった。八田は荒れ狂う海へと投げ出され、冷害と油にまみれた波間に消えた。生存者の証言や旧陸軍の防衛庁防衛研究所所蔵文書など、近年の検証によって明らかになったのは、脱出の余裕すら与えられないほどの阿鼻叫喚の現場だった。
沈没から約1ヶ月後、山口県萩市の須佐湾海岸に一具の遺体が漂着する。所持品にあったネーム入りの巻尺や手帳から、それが八田與一本人と確認された。遺体は現地で火葬され、灰となった英雄は静かに台湾へと戻ったのである。