小泉又次郎の家系図と刺青大臣の真相|純一郎・進次郎へ続く血脈の基本情報から最新動向までをわかりやすく整理しました。

小泉家の政治史は、神奈川県横須賀の潮風と軍港の熱気の中で幕を開けました。小泉又次郎は1865年(慶応元年)、武蔵国久良岐郡六浦荘村(現・横浜市金沢区)で生まれ、横須賀で育ちました。父・小泉由兵衛(よしべえ)は、幕末から明治にかけて急速に近代化が進む横須賀軍港において、とび職や土木請負、港湾労働者の手配を手掛ける「小泉組」を創業した人物です。

当時、海軍工廠の拡張工事に沸く横須賀において、労働者を束ねる請負業は腕っぷしと度胸がものを言う世界でした。由兵衛は長男の又次郎に対し、軍人として身を立てることを強く望み、陸軍士官学校への進学を命じます。しかし、反骨精神の塊だった青年・又次郎はこれに激しく反発しました。自著や当時の回想録によると、彼は「軍人になれば親の敷いたレールを歩むことになる。軍隊組織に縛られるくらいなら、町火消しや侠客の世界で生きてやる」と決心し、浅草の彫師のもとへ駆け込みました。

彫り込まれたのは、背中一面から腕にかけての「登り龍(倶利伽羅紋々)」でした。当時、体に刺青がある者は兵役や士官学校の受験資格を失う規定になっていたためです。激怒した父・由兵衛から勘当同然の扱いを受けながらも、又次郎は自らの意志で軍への道を完全に断ち切りました。

その後、東京毎日新聞の記者を経て、自由民権運動の熱気の中で政治の道を志した又次郎は、横須賀町議、神奈川県議を経て1907年(明治40年)に衆議院議員に初当選します。立憲民政党に所属し、男子普通選挙の実現に向けて命懸けの演説を繰り返したことから「普選の神様」と民衆から熱狂的に称賛されました。後に濱口雄幸内閣、第2次若槻禮次郎内閣で逓信大臣に就任。「刺青大臣」という異名は、下層階級出身であることを隠さず、むしろ大衆の味方である誇りとして掲げ続けた又次郎の生き様そのものでした。