江戸城がなくなった理由は?天守閣が再建されなかった真相と皇居の歴史について見逃せない 事実を分かりやすい構成で解説いたします。
江戸城の天守は、徳川の治世において一度だけ建てられたわけではありません。徳川家康、秀忠、家光という初期3代の将軍が、それぞれ権力を誇示するために建て替えを行いました。以下は、歴代天守の規模と焼失・再建断念に至る経緯をまとめた比較データです。
天守の名称・時期規模(天守台+天守高)解体・焼失の事由歴史的背景と評価慶長天守(1607年完成)約47メートル(5重)秀忠による本丸拡張に伴い解体家康が天下統一の象徴として築造。白漆喰の優美な外観とされる。元和天守(1623年完成)約48メートル(5重)家光の権力確立に伴い解体2代将軍・秀忠が改築。短期間で次の建て替えの対象となった。寛永天守(1638年完成)約58.5メートル(天守台13.8m+天守44.8m)明暦の大火(1657年)により全焼3代将軍・家光が完成させた日本史上最大級の巨城天守。黒塗りの重厚な威容。明暦天守台(1658年完成)天守台のみ(高さ約11メートル)保科正之の提言により木造部建設中止石垣のみが完成し現在に至る。実用と民生を優先した幕政改革の証左。
史料調査によると、寛永天守の高さ約58.5メートルは、現存する姫路城天守(約46メートル)を大きく上回り、現代の20階建て高層ビルに相当する規格外のスケールでした。これほどの巨大建築を維持・再建することが、どれほど莫大な国家財政を圧迫するかを見抜いていた保科正之の財政感覚は、極めて先進的であったと言えます。