鎌倉幕府の公文所とは?政所への改称理由と大江広元の役割を解明に関する基本知識をわかりやすくまとめました。今すぐチェックことができます。

多くの学習者が疑問に思うポイントが、「なぜ公文所は政所に名前が変わったのか」という点です。単なる名称変更ではなく、そこには頼朝の身分上昇と幕府の法的位置づけに関わる明確な理由が存在します。

平安・鎌倉時代の法制度において、「政所(まんどころ)」とは誰でも自由に名乗れるものではありませんでした。律令の格式上、従三位以上の公卿(くぎょう)、あるいは親王などにのみ設置が認められた「最高格式の家政機関」だったのです。

源頼朝は平家追討や奥州合戦を経て朝廷内での官位を急速に駆け上がり、1185年に従三位に昇叙、さらに1190年には右近衛大将(うこのえのたいしょう)に任じられました。これにより頼朝は正式な「公卿」となったため、従来の公文所を格上げし、自らの家政所たる「政所」を開設する法的手続きを完了させました。

『吾妻鏡』建久2年(1191年)正月15日条には、頼朝が新造された政所へ出御し、初代別当として引き続き大江広元を政所別当に任命した様子が記録されています。公文所が私的な武家組織の事務室であったのに対し、政所は朝廷の公認を受けた高位高官の公式機関としての威光を持つことになり、幕府の統治正統性が完成した瞬間でした。